写真家 千葉和広


写真家・千葉和広のホームページです

2011年以降は東日本大震災後の風景を撮影・記録しています

ブログ・サイト「 Untalkative photographs 」は、ほぼ毎日更新。こちらのトップページの
写真は過去の写真も含めてショートエッセイとともに随時更新しています。


ブログ・サイト  Untalkative Photographs
       被災地・写真・記憶


2016/07/15

・・1992年4月 / 東京・秋葉原・・


1992年、思えばまだ写真学校に在学中だった私が、「写真」を撮ることに開眼した1枚です。もしかしたら「鉱脈」のようなもの発見したのではないか、ここを掘り進んでいけば「写真家」になれるのではないか、と思わせてくれた自分ではお気に入りの写真です。

でも、今こうしてみると、そのころ(今でもですが)好きだったリー・フリードランダーやゲリー・ウィノグランド「っぽい」写真が撮れて喜んでいただけだったのかもしれません。

ここから始まったモノクロストリートスナップは、2002年にリクルート・ガーディアンガーデンが主催した「人間の街」というコンペに入選し、1週間の会期ではじめての個展をやらせていただくという形で結実しました。

会期中、ある評論家の方(まあ、ずばり飯沢耕太郎さんですが)が立ち寄ってくださいました。しばらくしてから展覧会評をまとめた本を出版されたので、恐る恐る立ち読みしてみると、「従来からある写真の手法で過不足なくまとめた写真」(※私の要約です)というような感想が書かれていました。

まあ一言でいえば「凡庸」ってところなのでしょうか。

その後、何となく諦めがつかずにカメラ雑誌に持込などをしてみましたが、「ああ、ちょっと前まで、みんなこんな写真撮ってたよねー」といったかんじの反応でした。

以上、何でもいいから何者かになりたい!と自己実現の罠にはまりもがいていた「写真家になりたかった男」の回想録でした。

2016.7.15


2016/07/11

・・1996年 / 東京・JR中央線・・


旧サイトからの転載です。

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仙台に転居してからは電車というものにすっかり縁遠くなってしまった
昨年1年間で電車に乗ったのは5回ぐらいだったとおもう。仕事や街中へ

は徒歩か自転車、どこかへ出かけるときには自動車という地方ライフスタ

イルにすっかり馴染んでしまっている。


東京にいた当時は、もちろんどこへいくのも電車で移動した。はじめて
上京した19歳のとき、首都圏を網の目のように走る鉄道路線図を見て何

か圧倒されたような気分になったのを覚えている。

だが、というかあたりまえなのだろうが、そのようなある種の感動も日々
の利用の中で次第にうすれていき、最後には電車に乗るのもうんざりとい

う田舎青年おさだまりのコースを辿ってしまった。


この写真もそんな「うんざり」の日々に撮影した1枚。当時住んでいた
三鷹から会社のスタジオがある飯田橋までJR総武線で通っていた。平行し

てJR中央線が走っていて、本数が多い朝の通勤時は抜きつ抜かれつといっ

たかんじの同じような速度で中野駅あたりまで進んでいくことがよくあっ

た。


窓ぎわに陣取り、85mmの単玉をつけたニコンを首からさげ、平行する
列車に必死にカメラを向けていた。(と思う、車内では「ちょっと変な人」
扱いだったはずだ。)それでもその間だけは電車通勤も悪くはないな、と

思えるときだった。

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今回の記事にはあまりコメントすることは無いようです。未だにまさにこのとおり。

とりあえず付け加えるとしたら、我が仙台も昨年末、地下鉄東西線が開通して南北線と合わせて2路線になりました。

「 車内では「ちょっと変な人」扱いだったはずだ。」と書いていますが、いまなら犯罪者扱いだと思います。おそらく。

2016.7.11

2016/07/10

・・2011年6月 / 仙台港・・


震災1年目は「とにかく現場を見てみてみたい」という意識が強かった。いったい何が起こったのか、起こったことはいったい何なのか。自分の目で確かめ、考えたいと思った。

車のトランクに折り畳み自転車を積み、フィルムカメラには今はなきネオパン400プレスト36枚撮を詰めて「被災地」を巡り歩いた。

今になって1年目の撮影本数を数えてみると驚くほど少ない。70本程度だった。フィルム時代の報道カメラマンだったら1、2日で消費してしまう量だろう。

正直、もっとガンガン撮影しておけばよかったと後悔している。「写真家」などと意識高い風を装ってもしょせんはカメラマンなのだ。現場に行く以上、四の五の言わずに写真を撮るべきだった。撮ってナンボだ、躊躇するなら行かなければよい。

2016.7.11

2016/07/09

・・2011年 5月 / 塩竈・・


私はブログといものの性質上分かりやすくするため、宮城県仙台市出身であるかのように装っていますが正確には違っています。

私の生誕地は岩手県盛岡市。ここは3ヶ月しかいなかったようです。続いて宮城県の築館町に移り2歳まで過ごしたそうです。当然、これらの地の記憶はまったくありません。

その後は宮城県多賀城市。仙台市のベットタウンのようなところです。ここで小学校6年生まで過ごしました。幼少期からの記憶がある心のふるさとです。続いて隣接する宮城県塩竈市に移り中高生の6年間を過ごしました。2005年からは仙台市に確かに在住しております。

写真に写っているのは塩竈市の貞山運河沿いの道路で、高校生のとき1年半ほどスクーターで通学した思い出の道です。当時、私が通っていた高校はバイク通学はおろか、バイクの免許を取ることすら禁止されていました。にもかかわらずです。

校内暴力・尾崎豊全盛の時代でしたので、私も武勇伝のひとつやふたつご披露したいところですが、バイク通学をしている以外は普通の高校生でした。

今、自分で思い出してもまったくもってつまらない奴です。

2016.7.9

2016/07/08

・・2004年 / 東京・井の頭公園・・


これも旧サイトから転載です。

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写真学校に入って初めて意識的に「写真」を撮ったのは、ここ井の頭公
園だった。

記念すべきワンカット目は池のふちにある手すりにとまっていた鳩だった
ような気がする。(カメラはニコンFM2だった)

当時、武蔵野市吉祥寺のはずれのあたりに住んでいたので、井の頭公園には
よく足を運んだ。もちろん写真を撮りに来ることもあったが、ベンチに座っ
てのんびりと本を読んだり、考えごとをしたりすることのほうが多かったと思う

17年の東京生活(最後は埼玉の川口市だったが)を引き払うことにな
った最後の1年は、多少感傷的な気分もあり、思い出の地めぐりみたいな

ことを何となくやっていた。上の写真はそのときの1枚。これより12年

前の同じく桜の時期に撮った1枚が写真集に収録してある。その1992

年といえば写真に写っている彼女たちは3歳か4歳といったところだろう

そして私はといえば39歳になった。考えごとをするために公園に行く
ような時間があった(そのような発想をする)20代半ばぐらいの自分が

うらやましくもあり、ちょっとしんどそうだなとも思う。
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旧サイトの記事を書いてから10年弱が経過しています。20代半ばの自分を「うらやましくもあり、ちょっとしんどそうだなと思う」39歳って何かかっこいいような気もするし、ただのかっこつけのような気がしないでもありません。

40代後半になってしまった今は、何か毎日しんどいだけです。

写真の日付は2004年、写っているお嬢さま方はもう30歳目前のはずです。彼女らがこの写真をみたら何を思うのでしょうか。

2016.7.8