写真家 千葉和広


姉妹サイト「 untalkative photographs 」は、ほぼ毎日更新。こちらのサイトは過去の写真も含めて動画とショートエッセイで随時更新しています。

2016/07/15

・・1992年4月 / 東京・秋葉原・・


1992年、思えばまだ写真学校に在学中だった私が、「写真」を撮ることに開眼した1枚です。もしかしたら「鉱脈」のようなもの発見したのではないか、ここを掘り進んでいけば「写真家」になれるのではないか、と思わせてくれた自分ではお気に入りの写真です。

でも、今こうしてみると、そのころ(今でもですが)好きだったリー・フリードランダーやゲリー・ウィノグランド「っぽい」写真が撮れて喜んでいただけだったのかもしれません。

ここから始まったモノクロストリートスナップは、2002年にリクルート・ガーディアンガーデンが主催した「人間の街」というコンペに入選し、1週間の会期ではじめての個展をやらせていただくという形で結実しました。

会期中、ある評論家の方(まあ、ずばり飯沢耕太郎さんですが)が立ち寄ってくださいました。しばらくしてから展覧会評をまとめた本を出版されたので、恐る恐る立ち読みしてみると、「従来からある写真の手法で過不足なくまとめた写真」(※私の要約です)というような感想が書かれていました。

まあ一言でいえば「凡庸」ってところなのでしょうか。

その後、何となく諦めがつかずにカメラ雑誌に持込などをしてみましたが、「ああ、ちょっと前まで、みんなこんな写真撮ってたよねー」といったかんじの反応でした。

以上、何でもいいから何者かになりたい!と自己実現の罠にはまりもがいていた「写真家になりたかった男」の回想録でした。

2016.7.15


2016/07/11

・・1996年 / 東京・JR中央線・・


旧サイトからの転載です。

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仙台に転居してからは電車というものにすっかり縁遠くなってしまった
昨年1年間で電車に乗ったのは5回ぐらいだったとおもう。仕事や街中へ

は徒歩か自転車、どこかへ出かけるときには自動車という地方ライフスタ

イルにすっかり馴染んでしまっている。


東京にいた当時は、もちろんどこへいくのも電車で移動した。はじめて
上京した19歳のとき、首都圏を網の目のように走る鉄道路線図を見て何

か圧倒されたような気分になったのを覚えている。

だが、というかあたりまえなのだろうが、そのようなある種の感動も日々
の利用の中で次第にうすれていき、最後には電車に乗るのもうんざりとい

う田舎青年おさだまりのコースを辿ってしまった。


この写真もそんな「うんざり」の日々に撮影した1枚。当時住んでいた
三鷹から会社のスタジオがある飯田橋までJR総武線で通っていた。平行し

てJR中央線が走っていて、本数が多い朝の通勤時は抜きつ抜かれつといっ

たかんじの同じような速度で中野駅あたりまで進んでいくことがよくあっ

た。


窓ぎわに陣取り、85mmの単玉をつけたニコンを首からさげ、平行する
列車に必死にカメラを向けていた。(と思う、車内では「ちょっと変な人」
扱いだったはずだ。)それでもその間だけは電車通勤も悪くはないな、と

思えるときだった。

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今回の記事にはあまりコメントすることは無いようです。未だにまさにこのとおり。

とりあえず付け加えるとしたら、我が仙台も昨年末、地下鉄東西線が開通して南北線と合わせて2路線になりました。

「 車内では「ちょっと変な人」扱いだったはずだ。」と書いていますが、いまなら犯罪者扱いだと思います。おそらく。

2016.7.11

2016/07/10

・・2011年6月 / 仙台港・・


震災1年目は「とにかく現場を見てみてみたい」という意識が強かった。いったい何が起こったのか、起こったことはいったい何なのか。自分の目で確かめ、考えたいと思った。

車のトランクに折り畳み自転車を積み、フィルムカメラには今はなきネオパン400プレスト36枚撮を詰めて「被災地」を巡り歩いた。

今になって1年目の撮影本数を数えてみると驚くほど少ない。70本程度だった。フィルム時代の報道カメラマンだったら1、2日で消費してしまう量だろう。

正直、もっとガンガン撮影しておけばよかったと後悔している。「写真家」などと意識高い風を装ってもしょせんはカメラマンなのだ。現場に行く以上、四の五の言わずに写真を撮るべきだった。撮ってナンボだ、躊躇するなら行かなければよい。

2016.7.11

2016/07/09

・・2011年 5月 / 塩竈・・


私はブログといものの性質上分かりやすくするため、宮城県仙台市出身であるかのように装っていますが正確には違っています。

私の生誕地は岩手県盛岡市。ここは3ヶ月しかいなかったようです。続いて宮城県の築館町に移り2歳まで過ごしたそうです。当然、これらの地の記憶はまったくありません。

その後は宮城県多賀城市。仙台市のベットタウンのようなところです。ここで小学校6年生まで過ごしました。幼少期からの記憶がある心のふるさとです。続いて隣接する宮城県塩竈市に移り中高生の6年間を過ごしました。2005年からは仙台市に確かに在住しております。

写真に写っているのは塩竈市の貞山運河沿いの道路で、高校生のとき1年半ほどスクーターで通学した思い出の道です。当時、私が通っていた高校はバイク通学はおろか、バイクの免許を取ることすら禁止されていました。にもかかわらずです。

校内暴力・尾崎豊全盛の時代でしたので、私も武勇伝のひとつやふたつご披露したいところですが、バイク通学をしている以外は普通の高校生でした。

今、自分で思い出してもまったくもってつまらない奴です。

2016.7.9

2016/07/08

・・2004年 / 東京・井の頭公園・・


これも旧サイトから転載です。

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写真学校に入って初めて意識的に「写真」を撮ったのは、ここ井の頭公
園だった。

記念すべきワンカット目は池のふちにある手すりにとまっていた鳩だった
ような気がする。(カメラはニコンFM2だった)

当時、武蔵野市吉祥寺のはずれのあたりに住んでいたので、井の頭公園には
よく足を運んだ。もちろん写真を撮りに来ることもあったが、ベンチに座っ
てのんびりと本を読んだり、考えごとをしたりすることのほうが多かったと思う

17年の東京生活(最後は埼玉の川口市だったが)を引き払うことにな
った最後の1年は、多少感傷的な気分もあり、思い出の地めぐりみたいな

ことを何となくやっていた。上の写真はそのときの1枚。これより12年

前の同じく桜の時期に撮った1枚が写真集に収録してある。その1992

年といえば写真に写っている彼女たちは3歳か4歳といったところだろう

そして私はといえば39歳になった。考えごとをするために公園に行く
ような時間があった(そのような発想をする)20代半ばぐらいの自分が

うらやましくもあり、ちょっとしんどそうだなとも思う。
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旧サイトの記事を書いてから10年弱が経過しています。20代半ばの自分を「うらやましくもあり、ちょっとしんどそうだなと思う」39歳って何かかっこいいような気もするし、ただのかっこつけのような気がしないでもありません。

40代後半になってしまった今は、何か毎日しんどいだけです。

写真の日付は2004年、写っているお嬢さま方はもう30歳目前のはずです。彼女らがこの写真をみたら何を思うのでしょうか。

2016.7.8

2016/07/07

・・2011年8月 / 亘理・鳥の海・・


” 鳥の海(とりのうみ)は、宮城県亘理郡亘理町太平洋に位置する汽水湖である ”

「鳥の海」には小学生の時に一度来たことがある。友達が父親と釣りに行くというので、便乗して一緒に連れて来てもらった。

チンチン(クロダイの幼魚)を釣ったのを覚えているぐらいで、どんなところだったかという記憶は残念ながらほとんどない。

「 "とりのうみ "に行くんだ」と友達に言われたとき、"とりのうみ "という今まで聞いたことのない語感から、いったいどんなところに行くのだろうと、ちょっとドキドキしていたことも覚えている。

2016.7.7

2016/07/06

・・1993年3月 / 東京・丸の内・・


1993年といえば今から23年前、四半世紀弱!経過しています。前の年に写真学校の専攻科を修了して(正確には卒業制作を出していないので中退。経歴詐称には気をつけねば)、「写真家」になりたいと活動しはじめた時期です。

このころバイク便という運送業のアルバイトで生計を立てていました。劇団員が居酒屋でバイトするように、ロック野郎がコンビニでバイトするように、小説家志望がビルの夜勤警備をするように、私も日々、東京の街を走りながら写真を撮っていました。

現在、私は生まれ故郷である宮城県仙台市で生活しています。当時思い描いていた「写真家」にはなれなかったようです。

劇団員、ロック野郎、小説家志望。みんなどうしているだろう。

2016.7.6

2016/07/05

・・2011年7月 / 石巻・・


おそらく車の中から撮影したものだろう。フィルムの前後関係から撮影したのは7月の後半あたりなのわかっているが具体的な日にちはわからない。

会社の名前が写っているので、ネットで検索してみると石巻に現在も会社がある。石巻に撮影にいったのではなく、通りかかっただけのようだ。

撮影にいった場所、日にちはなるべく手帳につけて置いたつもりだったが、整理整頓が病的なくらいに苦手なので、今になってみるとこのようになってしまう。

2011年3月から翌年2012年3月までの1年間はモノクロフィルムのみで撮影している。だからなおさらに。

2016.7.5


2016/07/03

・・2002年 / 東京・都庁広場・・


旧サイトからの転載です。めずらしくタイムリー?な話題。

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ちょっと前まで、世間の衆目を集めていた都知事選挙は大方の予想どう
り石原慎太郎氏の圧勝で終わった。選挙戦前は「石原さんも、そろそろも

ういいのではないか」というムードもあったようなような気もするが、か

ませ犬的な対抗馬がでてきて、報道合戦がひと通り盛り上がったあたり

で石原勝利確実という風向きになっていたと思う。(有力候補といちおう

言われていた浅野前宮城県知事の取ってつけたような発言の多さには、同

じ県民として少々はずかしい思いをさせられた)


石原氏の勝因は、大きな失態がなかったこと、選挙中は謙虚に振舞って
いたこと、強力な対抗馬がいなかった、というあたりだろうか。それとマ

スメディアが何だかんだいっても石原ファンだ、というのも大きいと思う


上の写真は2002年の都庁広場でのものだが、今回の場合もテレビな
どで見るかぎり報道陣のムードはこんなかんじだった気がする。なんかそ
の場にいることがうれしくてたまらないといったような感じのこの雰囲気
この時は私もそれに一役かっていたのだが。

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さて本年2016年7月現在も、前都知事の舛添要一氏のぐだぐだの辞任騒動、それに続く選挙が大きな話題になっていると書きたいところですが、舛添さんが辞任してしまったらトーンダウンしてしまったような気がします。私は都民じゃないのでなおさらです。

ちなみに旧サイトでふれている都知事選は2007年、石原慎太郎氏3期目の当選のときのことです。石原氏初当選の1999年の都知事選には舛添さんも立候補していたようです。

wikipediaってこういうとき便利ですね。この手の調べものは助かります。

2016.7.3






・・2011年7月 / 仙台・宮城野大通り・・


前回からの続き。仙台七夕が観光客向けになってしまっている一方で、市民参加型の祭りとして人気なのが「仙台すずめ踊り」です。

毎年5月に行われる「仙台青葉まつり」内で復刻され、さらに「仙台すずめ踊り」という独立した夏祭りが7月に開催されるようになりました。(事の詳細はwikipediaで検索してみてください)

2011年5月の「青葉まつり」は中止、7月のすずめ踊りは「復興・夏祭り 仙台すずめ踊り」として開催されたようです。

5年が経過し記憶もあいまいです。

2016.7.2



2016/07/01

・・2011年7月 / 仙台/勾当台公園・・


2011年、東日本大震災の鎮魂と復興を願い、東北六県の祭りを一同に集め仙台市で初めて開催された「東北六魂祭」。今年2016年の青森開催で六県を一巡りし、いったん終了するそうです。

終了の主な理由が資金難というのがなんとも世知辛い。

同様の後継イベントを検討中とのことだそうなので、仙台七夕のときに同時開催でやればいいのではないでしょうか。

地元の人間がいうのも何ですが、飾り付けを見るだけの七夕祭りはちょっと退屈です。他県のダイナミックな動きのある祭りに参加していただけると、たいへん助かるのですが。

七夕は前夜祭の花火大会しか見に行かない、と言う大半の仙台市民も足を運ぶような気がします。

2016.6.30


2016/05/17

・・2006年3月 / 仙台・勾当台公園市民広場2・・


今回も旧サイトからの転載です。

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“ 荒川静香選手「金メダルおめでとう」記念式 ”にて。その2

会場では遠目でしか見えなかった荒川選手をひとめ間近に見ようという「出待ち」
列に紛れ込む。じりじりと待たされること20分あまり、やっとお目当ての白い
ワゴン車があらわれた。

歓声が上がり、デジカメ、ケイタイがいっせいにシャッターチャンスをねらう。だが
窓のカーテンは閉じられたまま、中はまったく見えない。ワゴン車があっけなく通り過

ぎるとあたりは一瞬静まりかえった。そのあとはブーイングの嵐。



パレード、式典に集まった人々は73000人、「七夕並み」の混雑だったそうだ。

2006.4.11 記

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自分で撮影していて言うのも何ですが、写真だけ見ていると撮影年代がよく分かりません。アスファルトのでこぼこから「昭和テイスト」がにじみ出てくるからでしょうか。

タイトルにもあるように撮影したのは2006年。すでに携帯・デジカメとも充分に普及していましたが、意外にカメラをもっている人が少ない気がします。(旧サイトでは "デジカメ、ケイタイがいっせいにシャッターチャンスをねらう"と書いていますね。すいません。脚色してます。)

今だったら8割ぐらいの人がスマートフォンを出して待ちかまえているはずです。

おそらく動画で。

2016.5.17


2016/05/15

・・2011年6月 / 仙台港・・


「仙台港国際ビジネスサポートセンター(愛称アクセル)」と言われても地元でも分からない人が大半だろうだろう。「夢メッセみやぎ」(いわゆる見本市会場)に付随する建物、と言われてまあ何となく、というぐらいの知名度だと思う。

仙台港と名称にあるぐらいなので、すぐ目の前が海という立地だ。震災当日のラジオ放送で「仙台港に10メートルの津波」といっているのを聴いて、大概の建物は流されてしまうかと思った。正確にいうとそれは後から思ったことで「10メートルの津波」といのは誤報だとおもった。仙台平野に津波が10メートルも上がる訳がない、情報が錯綜しているだけなのだと。

こちらの建物は何とか持ちこたえ、1年4ヶ月後には再開している。

2016.5.15

2016/05/14

・・2011年3月 / 仙台・六丁の目東交差点付近 ・・


震災から約2週間後。私がおそるおそる足を踏み入れた初めての「被災地」。自宅から自転車をこいで30分ぐらい、よく車で通っている地元では産業道路と呼ばれる県道23号線の六丁の目東交差点を少し脇に入ったところだ。海岸からは直線距離で約4kmほどある。

どんよりとした曇空のもとに広がるまったく色の無い風景。360度どこにカメラを向けても「写真」が撮れる、夢のようだが悪夢の世界。

シャッターをきったのは16枚。たったの。

2016.5.14


2016/05/12

・・2006年3月 / 仙台・勾当台公園市民広場・・


今回も旧サイトからの転載です。

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“ 荒川静香選手「金メダルおめでとう」記念式 ”にて


黒山の人だかりとなった会場で「穴場」を発見した。正面舞台を真横から見るかた
ちになるが、会場内にいるよりはだいぶ近くに見える。胸にさげた大きなドーナッツ
のような金メダルもときおりきらりと輝く。
背のあまり高くない女性などは、必死に背伸びをして樹木や垣根の間から何とかの
ぞき込もうとするが、それを遮るように二人のスーツ姿の男が立ちはだかった
何やら言葉を交わしながらニヤリと笑う男たちの目に、我々はどのように映ってい
るだろうか。こちら側の意見は皆同じである。

ひとこと・・・・・・「ジャマだ!」

2006.5.2

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10年前の写真・記事。「ジャマだ!」などと若書きで大変申し訳ありません。(当時もたいして若くはありませんでしたが)

2016.5.12


2016/05/11

・・2011年9月 / 仙台・岡田・・


仙台市若林区の岡田地区。整然と区画された田園風景にまっすぐな農道が走っている。2011年は津波で海水が入ってしまい稲の作付はできなかったようだ。モノクロなのでよくわからないかもしれないが、田んぼに生えているのは稲には似ているがすべて雑草である。

警備員の人が所在なげにちょこんと座っている。私も若いころに警備員のバイトをしたことがあるが、いろいろとやったバイトの中では苦痛なほうであった。頻繁に車や人通りがある場合はやる事があってよいのだが、「何でオレはこんなところに立っているんだ!」という思いもしばしばである。(法律上いたしかたないか)

まだ20代前半で、こういう苦労が(苦労というほどでもないが)将来実を結ぶ。など考えていたが、今になってみるとあまり関係ないような気がする。

2016.5.11

2016/05/10

・・2012年10月 / 宮城・七ヶ浜町・・


震災から約1年半が経過した七ヶ浜町の菖蒲田海岸。10月に入ったが天気もよく暖かい日だった。何かの視察団の方々の様子は、震災1年目とは違いどこか和やかなかんじがする。

ここ七ヶ浜は、私が震災前の風景を知っている数少ない場所のひとつだ。幼いころは両親に連れられて海水浴、小学生になると友達と一緒に釣り、成人してからも帰省の折に何となく訪れる、懐かしい記憶のある場所だった。(そういえば、高校生のとき夏休みの部活の練習をサボって、皆で泳ぎにきたということもあった。)

旧サイトにも写真・記事があったので、そちらも再録します。

2016.5.10

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宮城・七ヶ浜町 / 2007年1月

小学生のころよくアイナメ釣りをした松が浜漁港に初日の出を見に行った。
現地に着いたのは6時半ごろ、薄明るくなってきた夜空を背景にして防波提
に立つ人々のシルエットが少しづつ浮かびあがってくる。


ひさびさに夢中になって写真をとっていながらも、ふと思ったのだが、写
真を撮る人間は物事をあまりよく見ていないのではないのだろうか。何とい

っても今まさに大海原から初日の出が昇ろうというときに、自分好みの構図

はないかと小さなファインダーから片目でのぞいているような人種なのだ。


幼なじみの友達とよく釣りにきていたころ、引きのない時間帯はテトラポ
ットに腰掛けながら二人とも黙って水平線を眺めていた。「この海はアメリ

カまでつながっているんだよな。」などと少年らしいロマンチックなことを

ときおり口にしながら。そのときの両方の目はしっかりとあけられていたは

ずだ。


2007.1.8


2016/04/28

・・2011年10月 / 仙台・鐘景閣・・


仙台市太白区の茂庭というところに鍾景閣(しょうけいかく)という建物がある。明治期の伊達伯爵家の住居を移築したもので、現在は食事等で利用・見学できるようになっている。

こちらの写真は建物の入り口付近。前庭というわけではなく(立派な中庭がある)、何となく草地になっているところとでも言えばよいのだろうか。あたりは木々に囲まれていて気持ちのいい場所である。

震災から半年が過ぎて「ちょっとこんなところで食事でも」というような気分になってきたころで出かけたのだったと思う。

スーパーには長蛇の列、ガソリンが手に入らない、ガスが止まって風呂にもはいれない。などという準被災地での出来事も過去のものとなりつつあった。テレビなどでは「震災を風化させるな」という言葉が、ちらほらとあらわれはじめていた。

2016.4.28


2016/04/22

・・2005年5月 / 岩手県・江刺・・


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鹿踊り(ししおどり)を見ているときにかんじる、あの「怖さ」はどこからくるの
だろうか。目前の装束、踊りそのものというよりも、それをきっかけにかつて自分
が小さな子供のころにかんじていた「怖さ」の記憶が、揺り起こされるような感覚が
ある


何がどう怖かったなどということはもう具体的には思い出せない。ただ「怖さ」の
感覚だけはぶ厚い記憶の層の底から一瞬だけ浮かび上がる。

2006.2.22

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こちらの写真・記事も旧サイトからの再録。皆さんが着ている法被の背中の紋は「九曜紋」といい仙台藩・伊達家が使用していた家紋のひとつ。(ちなみに私の家も九曜紋です)

江刺を訪れたこの日も大きめの地震があった。東京での生活から仙台に戻ってまだ間もないころだったが、「今後5年以内に宮城県沖を震源とする大きな地震が起こる確率は90%」などと、頻繁にニュースなどで報道されていたことを思い出す。

あとは、それがいつ来るのかが問題だった。地震がくることは、皆知っていたのだが。

2016.4.22



2016/04/21

・・2006年1月 / 沖縄・那覇空港・・


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南国とはいっても1月の沖縄はやはり「冬」らしい。


飛行機から到着ロビーに向かう通路を歩いていて感じる予想外のひんやりとした空気に、軽いコートを羽織ってきたのは正解だと思った。

レンタカーで空港を後にし、地元で「エンダー」と呼ばれるA&Wというハンバーガーショップに立ち寄る。注文を終えて席に着くと、窓ぎわに座っている大学生ぐらいのカップルが二人ともマフラーをしていることに気がついた。

さすがにそこまでは寒くないだろうと「本土」からきた人間は思うのだが、ファッション
に敏感な沖縄の若いひとにとっては「マフラーを巻く」ということが実践できる数
少ない日だったのかもしれない。



2006.3.27

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私は2005年に「ピープル・タイム」という名前でホームページを起ち上げたが、そのまま放置してしまった。今回のホームページ(ブログ)はそのリニューアル版と考えている。

そのような訳で久しぶりに放置された旧サイトを見てみたのだが、なかなかおもしろいと思われる写真・記事もあるので(自分でいうのも何なのだが)、いくつか再録していきたいと思う。

文章の書き方はあまり変わらないようだが、若い分だけちょっとスカしてるかもしれない。それにしても10年前の写真・記事と思うと感慨深い。

2016.4.22

2016/04/17

・・2011年8月 / 石巻川開き祭り その2・・


前回の続き。 石巻には漫画家・石ノ森章太郎さんの記念館「石ノ森萬画館」がある。旧北上川の中洲にある萬画館は5m近い津波が押し寄せたそうだが何とか建物は持ちこたえて、2011年11月17日には再オープンしている。

聞くところによると、私は石ノ森さんの遠い(遠い!)親戚にあたるらしい。小さい頃に両親が石ノ森さんに会わせてくれるよう画策してくれたそうなのだが、結局実現しなかったようだ。(仮面ライダー1号.2号.V3が全盛のころです)

私が小学校1年生のときにテレビ放送がはじまった石ノ森さん原作「秘密戦隊ゴレンジャー」は、幼心にも「集団のなかには、それぞれに与えられた立ち位置がある」ということを教えてくれたと思う。

「ナンバーワンよりオンリーワン」よりは有益だったのではないだろうか。


2016.4.17

2016/04/14

・・2011年8月 / 石巻川開き祭り ・・


東日本大震災から5ヶ月弱の石巻中心の駅前商店街の風景。中止も視野に入れていた(であろう)川開き祭りは、この年も何とか開催にこぎつけることができた。(のだと思う)

震災の5年前ぐらいにここを訪れたことがあるが、そのころすでに駅前商店街は「シャッター商店街」(申し訳ありません)と化していた。春先の平日ということもあったが人通りもまばらで閑散とした雰囲気。天気だけはものすごく良いのだが、風が強く寒かったことを覚えている。

その時にふと、「シャッター商店街をテーマに写真を撮ろう」と今かんがえるとつまらないことを思いついたが、その後シャッター商店街に行くことも、石巻に来ることもなかった。

2016,4,14


2016/04/11

・・2011年5月 / 仙台・クリネックススタジアム宮城・・


言わずと知れた(少なくともこのあたりでは)プロ野球球団、東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地であり、2016年現在は「楽天KOBOスタジアム宮城」に改名している。

私にとっては野球少年時代に試合をしたこともある旧「宮城球場」であり、誰かに場所などを説明するときは適当に「楽天の球場」ということが多い。

震災から2ヶ月が経ち、準被災地ともいえる仙台市中心部は落ち着きを取り戻しつつあった。というよりは重苦しい緊張感から解放されつつはあるが、どうして良いのかわからない、中途半端な、ある種の無気力な空気が漂っていたような気がするのだが。

そんなこと写真からは何もわからない。実際どうだったのかも忘れかけている。



2016.4.11